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理解できない愉快な会話

[まあ座れや]  通じりゃ勝ちよ  中国・台湾への出張が増えた2000年代後半、現地のタクシー運転手が英語を全く使えないのには困った。しょうがないので、英語が使えるホテルのフロントをベースキャンプとして行動する (毎回いったん戻って出直す) のだが、とても非効率。背に腹は代えられず 40歳半ばを過ぎで初めて中国語を勉強し始めたが、取り急ぎ結論。 無理ゲーっす よ。 それでもカタコトとジャスチャーで、何とか中国でタクシーくらいは乗れるようになった。  そんなある日、長江を挟んで結構な遠距離をタクシーで移動することがあった。出先でタクシーを呼んでもらい、何とか行き先を運ちゃんに飲み込ませる。「好!」の言葉を信じて走り出したが、この運ちゃん結構な話好きで、自分が覚えたカタコト日本語が正しいかどうか聞いてきた。まぁまぁ通じるので「很好」とお世辞を返したら、 喜んでしゃべる喋る、、、中国語を 。  ガンガン話す中国語の聞き取りもできないが、返事の発音もままならない。そのうち運ちゃんも諦めていったん黙ったが、元来の話好きが抑えられないのだろう、外を指さして中国語で話しかけてきた。もうしょうがない、日本語で、 ワ:「ありゃ、なんだい?」 運:「nashimai西瓜detanzi!」 ワ:「はあ、ウリの屋台か」 運:「要不要maidiandaizou?」 ワ:「いらないよ、だいたい高速道路になんで屋台が出てんだよ」 運:「dei生活ma、わははは!」 ワ:「そりゃ、そうだ。わははは!」 それから急に話がスムーズになり、一時間以上、ワタシは日本語、運ちゃんは中国語で大笑いで「会話」しながら目的地に着いた。料金を支払うときには、ワタシも最後に頑張って「不用找了、辛苦了」。すると運ちゃん、にっこり笑い「ありがとうゴザイマス」。  アジアの現地人と現地語でスムーズで愉快な会話が出来たのは、あれが最初で最後。 お互い何一つ理解できなかった。 でも、とても楽しかった。

Why not?

[まあ座れや]  ご一緒にポテトはいかがですか?  2000年代前半くらい迄のことだが、マクドナルドでハンバーガーを頼むとクルーのお姉さんが 「ご一緒にポテトはいかがですかぁ?」 と押し売りしてきた。どうやらフライドポテトは売れば売るほど儲かる商品らしい。「で、では、それも」と気の弱いワタシはしょっちゅう餌食になっていたが、さすがに後ろめたかったのか 「 スマイル0円 」 (死語) をトッピング して下さった。いまは押し売りも無くなり良い時代になったものだ、としみじみ思う。下手すりゃセルフオーダーだしな。  同時期の米国、ポートランドに行ったときの事だ。ホテルにチェックインしたのが夜遅くなり、明日の打ち合わせを考えるとレストランでの夕食の時間がもったいない、早く寝たいよ、という気分だった。部屋から見下ろすと近くにマクドナルドがある、あそこでいいか。さっそく店に行くが、クルーがアメフト選手みたいな巨大な黒人男性で、 スマイル0 。チキンなワタシ (パテはビーフだが) には結構怖い。時間が時間なだけに客がほとんどいないのも心配になり、テイクアウトで注文する。 私:「ビッグマック一つ、コーラMを一つ、持ち帰りでね」 ク: 「一緒にポテトはいらんか?」 私:「いらないよ」  英語だと断れるワタシも不思議ちゃんだが、もっと不思議はそのあと襲ってきた。 ク: 「 Why not? 」 ふ、ふわいのっと?ポテトを断る理由を要求するのかい、お兄さん 。 私:「お、おなか一杯だから」 ク:「ふん」 放り投げるように渡された紙バッグをひったくって逃げ帰ったが、後にも先にも「なんで?」と聞かれたのは、あの時だけだ。  今でもたまにマクドナルドへ行く。もう「ご一緒にポテトはいかがですか?」と聞かれることはなくなった。だが時々、クルーのお姉さんが「なぜですかぁ?」とうるんだ目で追及してくれないかと、ちょっとだけ期待するときがある。   ちょっとだけね 。

六月に降る雪

[まあ座れや]  祈るということ  日本は自然災害の多い国だが、自分自身が被災しない限り基本的には仕事は止まってくれない。2010年から引退するまで、ワタシは仕事で国内を移動することが極端に増えた。時には被災地近くに出張する事もあった。  2014年2月。山梨はのちに激甚災害指定を受けるほどの大雪に見舞われた。ひと月後、山梨の会社を訪問した時は自動車での移動には特段の困難は感じなかった。だが、途中眺める農地ではたくさんのビニールハウスが潰れており、悲惨な状況が見て取れた。打ち合わせた相手社員もお父上が農業を営んでおられ、自然とその話になった。山梨県は復旧支援金の支給を速攻で決め、お父上もその対象となったらしいのだが、廃業するという。  「 父は、、父は、心が折れてしまったのです 」 息子さんは静かに言った。  2016年4月。熊本は大震災に見舞われた。地元の誇りである熊本城が大きく崩れ、特に益城町の被害が酷いとも報道されていた。そんな中、熊本の取引先企業からの支援要請もあり、かなり早い時期に仕事で熊本入りした。その途中、益城町を自動車で通過したが、あまりの惨状に言葉が出なかった。   完全なる破壊 。 倒壊した家屋で何かの作業をしている住民を一人見かけた。自動車から見ただけだが、その顔に感情らしきものは見えなかった。  2004年10月。我が故郷が震災に見舞われ、帰郷した。実家は何ともなかったのだが、3軒先の家屋は全壊していた。 誰のせいでもないこの圧倒的な不公平 。母校の校庭に被災者があつまり、自衛隊が支援してくれていた。その光景を見た瞬間、涙が止まらなくなった。 感情は何もない。悲しさも怒りも何もない。ただ滂沱と流れる涙を止められなかったし、拭う気にもならなかった 。益城町のあの人を見たとき、それを思い出した。  他人のために祈るのは自由だし、本来それは美しい行為だ。  だが無自覚な善意の言葉は、被災者の上に降り積もる。  六月に降る雪の邪悪の様に。  だから、ここで私も沈黙しよう。 (今回、掲載ルーチンを崩しました。乱文ご寛恕賜りたく)

ある日の夢想

[まあ座れや]  日曜の交差点  自動車を運転していた或る日。都内の小さな交差点での信号待ち。良く晴れた日曜だったが人通りも交通量も少なく、横断歩道前に停車した自動車はワタシだけ。歩行者も信号待ちしていた数人だけだ。右側にいたのは、小学生くらいの男の子とその両手を引くお父さんお母さん。左側には杖を突いたお婆さんとその手を引く中年の男性、息子さんだろうか。歩行者信号が青になり、二組とも渡り始める。右から、ばねの様な男の子のエネルギーと、ご両親の笑顔。左から何とか歩こうと頑張るお婆さんと、労わる様に腕を支える疲れ顔の息子さん。ワタシの目の前ですれ違う。そのとき思った。 「ああ、人生が交錯する」  *****  ワタシは子供の時から友人が少なく一人遊びばかりしていた。それも「楽器を弾く」「絵を描く」「スポーツをする」といったレベルの高いものではなく、「手近にある本を乱読する」か「ぼーっと夢想する」といった、まったく以って「陰キャ」の鏡の様な一人遊びだ。 普通の人にとっては何でもない平凡なコトやモノに対して「ぼーっと夢想する」 ので、他人に説明しても意味はない。「夢想」している時は微笑んだり悲しそうな顔をしているらしく、薄気味悪く思ったクラスメートに訳を問われた事もあった。だが、 説明しても何が面白いのかまるで理解してもらえず、次第に説明を諦めるようになった 。いや、その前にクラスメートの方が呆れて問いかけなくなった。 (最近「無キャ」という言葉を知った。ワタシのためにある言葉だなと感心した)。  社会人になってから出来た数少ない友人の一人が、ワタシを評して「xx (ワタシの事) はええなぁ、いつも楽しそうで」と笑っていた。彼にはワタシの「夢想」など一度も説明した事が無い。でも、もし上の様な夢想を話したとしたら、たぶん同じように笑ってくれただろう。 だが彼はもうこの世にはいない。  ああ、青だ。軽くアクセルを踏み込む。  バックミラーに交錯した人生を収め、ワタシは再び走り始める。

そんなつもりはございません!

[まあ座れや]  お役所文学  1987年に最初に買った自動車が10年落ちの中古MINI、何かと手のかかるクルマだった。エンジンをかけるだけでも色々な「儀式」が必要で、ハイテク現代人には全く向かない癖の強い車だった (老いた今では、ワタシだってお付き合いは御免だ) 。だが自動車好きな友人はそれを見て「ええなぁ、色々やる事があって」と羨ましがった。 マニアとはともかく困った人種で、不便を楽しむ癖があり、マイナー志向も甚だしい 。まぁ、どんな趣味でもそうなのかもしれない。  そんな変わり者が更なるマイナー化を考えた挙句、自動車雑誌で見かけたオープンカーへの改造を考えた。海外のコーチビルダーがMINI改造をやっていると聞き込み検討したのだが、「120万円で購入した中古車を、350万円かけて改造するために西ドイツ ( おい! ) に輸出する」なんて気が狂った事を真面目に検討していた私たちはバブリーな馬鹿でした、はい。輸出入手続きの煩雑さと追加経費の莫大さにビビッて断念したが、やはり「 走りながら青空を見たい! 」という欲望は消えず、国内で対応可能な「サンルーフ後付け改造」で我慢することに落ち着いた。こちらは確か20万円位だったと思う。  「屋根に穴を開ける」という車体構造変更になるので、当時は陸運局に改造申請書で事前にお伺いを立てねばならず、カスタムショップが申請書類一式を用意した。改造申請者であるワタシのサインが必要なので書類を読んだが、膨大な強度計算書や改造図面はともかく、 「改造理由」 を読んで悶絶した。 「 本改造は、当該改造による走行中の換気性能の改善により運転手の運転操作への集中能力を増進し、もって運転安全のさらなる向上を図る事を目的とする 」   い、いえ、決してそんな大それた目的は ミジンもございませんっっ!  けっきょく許可は下りて改造できたのだが、初めてサンルーフを開けそよ風に微笑んでいたワタシの頭には、このお役所ブンガクがこだましていました。

こどもの日に思う

[まあ座れや]  親孝行   「子供は三歳までに親孝行を終わらせている」 これは有名な子育ての格言だ。「大きな子供」とカミさんから笑われるワタシはろくな子育てをしてこなかったが、それでも実際に幼い息子に接して、この格言は正しいなと実感した (もう30年も前の話だ) 。 「他人からの100%の信頼」は、幼い我が子からしか受けられない 。成長し三歳前後で息子に自我が生まれ始めると、残念だがそのような感覚は徐々に消えていったが、たとえ生涯一度であってもこの経験ができた事に素直に感謝する。  ワタシは三歳の時に大やけどをした。いまも酷いケロイドが左足に残っている。どうやら火鉢に掛かっていた沸騰した鉄瓶をいたずらでひっくり返してしまったらしい。運び込まれた 病院で二回心臓が止まったが、生き延びた (医者は「心臓の強い子だ」と感嘆の声を漏らしていたとの事) 。ワタシ自身は事故の瞬間もその後の入院生活も全く覚えていないのだが、親にしてみれば自分が死ぬよりつらかっただろう。悲しいかな ワタシは「三歳にして親不孝」な息子だった 。  おおよそ一年間は寝たきりに近かったようなので、体力も運動神経も他の子に比べて劣るのは仕方ない。頑張ればそのうち追いつくさ。それは大人の冷静な意見だ。しかし子供は残酷である。「ちゃんと遊べない」子供は仲間外れにされる。ますます人と遊ばなくなり、運動能力はどんどん遅れていく。ますます仲間外れにされる。人生の分かれ道、一人遊びしかできない暗い子供の出来上がりだ。果たしてあのとき生き延びたのが幸運だったのか不幸だったのか、たぶん誰にもわからない。 ・・・・・  こどもの日は、何故かいつも晴れである。今年も晴天の公園は親子連れでいっぱいだ。子供たちが夢中で遊んでいる。我が子からの100%の信頼を受けて、どの母親も父親も笑顔が輝いている。   健やかに。なにとぞ、健やかに 。 「三歳にして親不孝」だったワタシが、晴天の五月の空に祈ります。

うしろ姿を見守る特権

[まあ座れや]  高校卒業認定試験  零細個人事業主稼業では食えないので、都内の某テストセンターでTOEFL試験監督補助のバイトをしていた。その時の ちょっとした失敗 が切っ掛けでサイトマネージャーに逆に評価され、別の仕事もさせてもらうようになった。 (余談: 社会人二年目の失敗 でもそうだったが、「失敗が評価される」という事が多かった。たぶんラッキーな人間なんだろうワタシは。感謝します、だれに感謝していいかわからないが)  その別の仕事で、 某国の「高校卒業認定試験」というとても珍しいペーパーテストを監督する機会 があった。受験者は一人。失礼ながら、もうお婆さんと言ってもよい年齢のご婦人だった。某国の公用語は英語なので試験問題は英語だ。しかしこのご婦人、チェックイン時の本人確認IDは日本のパスポート。ワタシとの会話も自然な日本語で、 堂々たる「日本の上品なお婆さん」だ 。  試験は何教科かあり、途中昼休みをはさんで一日掛かりの試験だったと記憶している。当方は試験「監督」が業務なので試験内容については関知せず、試験委託元の指示書 (英語なのよこれが。読後に理解度試験をさせられました) に厳密に従い粛々と監督するだけ。お婆さんが黙々と答案用紙に向かっているのを、後ろから監督していた。全ての試験科目を消化し、最後に答案用紙を回収して無事終了。「お世話になりました」と上品な微笑みで頭を下げて静かに会場を後にされたが、「 この方は、なぜ今の年齢になって高卒認定資格を、それも外国の資格を取ろうとしているんだろう 」と、どうしても余計な事を考えてしまう。  後でサイトマネージャーとその話をしたのだが、「我々は淡々と試験会場を運営するだけですよ」と軽くたしなめられた。だが続けて「でも、 人生の必要に一所懸命に取り組んでいる後ろ姿を見守る特権が、我々にはありますね 」。  たった一日、すれ違っただけのあのお婆さんに「幸あれ」と祈った冬晴れの日だった。

シンガポールのバックヤード4

[まあ座れや]  明るい北朝鮮   駐在の台湾人 は、シンガポールでは自家用車も買えないと嘆いていた。関税の高さはともかく、ナンバープレート取得などの「自動車を所有する行為」そのものに対する課税が途方もないとか。カローラクラスで最低1000万円は必要。しかも運転できる曜日がナンバーの偶数・奇数で別れているので、二台持ちしないと意味がない。「 ここじゃマイカー持つなんて罰ゲームみたいなもんだ。日本の非関税障壁なんて障壁じゃないよ。 」だそうだ。でも繁華街では、ベンツもBMWもフェラーリも走っている。はぁ、富裕層には気にならん、てか。  接待のレストランは庶民的 (?) なところを選んでもらった。料理はまあまあだが、ショーアップがド派手。ショーの最後は素焼きの皿が数十枚レストラン内を飛び交い、床で弾けるたびにてお客は大喜びで歓声を上げて終わった。この割れた皿はだれが片付けるの?と思った私は貧乏性だが、 ふとシャトルバスの暗い目をした女性たちを思い出してしまった。そりゃ暗くもなるわな、この格差 。 接待が終わりレストランを出たところで正面に監視カメラを見つけた。 「結構カメラがあるんだな」 「シンガポールで一番進んだ技術があれさ」 「どんな技術?」 「あの監視カメラはおとりだよ。シンガポールで監視カメラを1台見つけたら、見えないカメラがあと10台はある。隠す技術がすごいんだ。北朝鮮とどちらがすごいかな。まぁ少なくとも、こっちはあっちより『明るい』けどね」 それを聞いたヘソ曲がりのワタシは、カメラに向かって笑顔で手を振ってやった。  シンガポールには合計一週間くらい滞在したが、まるで「ディズニーランドのバックヤード」だけを見せられた感じだった。「あそこはいけ好かん街や」という上司には別の意味で同感だ。ディズニーランドは客として行くところだ、住むところじゃない。   ましてや「夢の国」の奴隷にはなりたくない。絶対にね 。 (おしまい。 イケア から遠くまで引っ張ってゴメンなさい)

シンガポールのバックヤード3

[まあ座れや]  台湾人の憂鬱   その日 の打ち合わせが終わりタクシーでドミトリに帰るとき、途中に有る駐在員の社宅まで台湾人と相乗りした。会社が借り上げた社宅はマンションで、そのあたり一帯はいわゆるゲーテッド・シティ。目的のマンションで台湾人を下ろしてワタシ一人でドミトリに向かったのだが、ゲートを出てから暫くして「あんた日本人か?」と運転手が聞いてきた。 「そうだよ」 「彼らはあんたの友達か?」 「同僚だよ」 「彼らは台湾人か?」 「そうだ」  一息おいて 「台湾人なんかと付き合うな」 と吐き捨てるように言った。「なんでだ?」と聞いたが会話はそこで終わってしまった。以前 「あそこはいけ好かん街や」と私の上司 (台湾人) が言っていた が、中国系・マレー系と台湾系の間で何やら確執がありそうだ。  後日再訪する予定になったので、オフィスの台湾人達に「次の日本のお土産は何が良い?」と聞いたら、間髪入れず「マイルドセブン!」と返ってきた。まぁ確かに日本製だけどさァ。「嗜好品の税金がべらぼうに高いんだよ」と説明してくれた。タバコは日本の三倍くらいしたんじゃないだろうか (注:今はタバコ持込は免税枠すら無し。さらに「ご清潔」になったようだ) 。酒も税金が高い。 駐在員に接待用のレストランを予約してもらったのだが、コース料理を詰めていた時に「お酒を持ち込むか?」と聞かれた 。ワタシが「へっ?」という間抜け顔をしたのだろう、苦笑いしながら 「お酒が高くて予算内に収まらないよ。日本人は酒をがばがば飲むからさ、持ち込んだほうが安いよ」 「も、持ち込めるの?レストランに?」 「接待用レストランは持ち込みを向こうから提案してくるよ、大抵はね」 「どこで買うの?」 「国内 (シンガポール) では買わないよ、意味ないから (税金が高いから) 。次は日本から持ち込んでよ」 だそうだ。  結局「接待のお酒が死ぬほど高い」問題は接待費を会社に増額してもらい解決した (解決、なのか?) 。 (ホント すまん、 さらに続く わ)

シンガポールのバックヤード2

[まあ座れや]  なんだよ、これ  ワタシの受けた シンガポールの印象は最初から最後まで悪かった 。あの時代はシンガポールをやたら持ち上げるメディアばかりで、「影」の部分については何も知らなかったせいでもある。  深夜に到着したチャンギ空港は、「24時間運用で凄い!」と日本メディア絶賛の割には閑散としていて、多くのお店はやっていない。レストランで夜食でも食べようかと考えていたのだが、開いていないのではしょうがない。コンビニ (もどき) があったので軽食を買ったが空港価格でやたら高い。なんだよ、これ。呆れながらタクシーに乗る。東アジアのタクシー運転手に英語が通じたのは初めてだったので助かったが、降りる際にクレジットカードを出すと「現金無いの?」とぶっきらぼうな調子でカードを受け取らない。「なんでだ?カードokって書いてあるじゃない」とワタシもむっとして言い返すと、「このあと (私用で?) 現金が必要なんだけど、ATMに行く時間がないんだよ。頼むよ」とすこし哀れそうな顔になったので、めんどくさいので現金で支払い降りた。なんだよ、これ。  タクシー運転手が英語を話したので、 「『シンガポール人は英語が話せる』という話は本当だった」と無邪気に信じかけた が、 前述の シャトルバスに乗ったときに、その無邪気は無残に打ち砕かれた。運転手に「このバスはxxx社に行きますか?」と英語で聞いたが、困り顔で首をかしげるだけ。乗客は若い女性ばかりで、ワタシが近くの女性客に聞いても引き気味の反応しか返って来ない。もう一回運転手に「xxx社?!」と強めに言ったら、明らかに英語でも中国語でも無い言葉を話しながら、縦に首を振ったので乗り込んだ (工業団地の無償循環バスだったので運賃はいらなかったのだが、それを確かめるのに後でまたひと悶着) 。言い方は悪いが シャトルバスは「奴隷船」だった のだ (なるほどイケアを通る訳だよ) 。 「奴隷」に英語は通じない。なんだよ、これ。 ( すまん、 さらに続く )

シンガポールのバックヤード1

[まあ座れや]  「イケアに行く」ということ  イケア原宿・新宿が閉店するというニュース (@2026/2) を見てふと思い出した。2011年ころに台湾半導体企業の営業職だった時の事だ。  ある国内半導体企業の顧客をシンガポールの工場へ案内する事になり、訪問数日前に先行してワタシ一人でシンガポールに入った。深夜便だったので、空港から宿泊先のドミトリに向かうタクシーの窓からはこれといった景色は見えない。そのドミトリの周りには中国風の廟があるだけでお店など何もなく、下手すると日本のド田舎より寂しい感じの粉っぽい殺風景な場所で降ろされた。 日本のメディアで見る「華やかなシンガポール」は影も形も無い 。まぁ工業区画だからな、こんなものか。  翌朝、ドミトリから工場の有る工業団地へ向かうシャトルバスに乗っていると、 巨大なイケア の脇を通過した。 それはそれは大きなショップだ。 工場での打ち合わせのあと、工場駐在の台湾人にそのイケアについて聞いてみた。 「途中でものすごく大きなイケアを見たよ、シンガポールでもイケアは人気なの?」 「あぁ、 『ビンボー人のディズニーランド』だな。 人気だよ。休みに行ける安い場所は、シンガポールには他に無いからね」 「?」 「週末をシンガポールで過ごさなければならない 貧乏な出稼ぎ連中には、イケアしか時間を潰す場所がない。 あそこなら冷房は効いているし、フードコートで安く食事ができる。貧乏人同士でおしゃべりして週末を過ごすのさ」  ワタシの宿泊したドミトリの場所は、出稼ぎ労働者が集団で宿泊する寮が集中している区画にあるらしい。シャトルバスに乗っていた人たちの雰囲気が何となく暗かったのは、皆さん出稼ぎ労働者だからなのか。ほとんどが若い女性だったのに笑い声も明るい会話もなく、ちょっと異様な感じだった。  その駐在員は少し同情を込めてこう言った。「 シンガポールの奴隷たちだね 」。 (長くなったので、 次回 へ続く)

どこまで嫌われてるの?

[まあ座れや]  あの宿痾  今回の衆院選 (2026) は既成野党崩壊という惨状になった。この選挙結果を見て、以前ナンチャッテ・ベンチャーに関わっていた2012年の事件を思い出した。  この時はK市のS社という「ベンチャー」で仕事をしていたのだが、その事業が「投資家とベンチャーの仲立ちをして口利き料を稼ぐ」という、商社もどきのかなりいい加減な会社だった (社長J氏は「コンサル」を気取っていた。 この時の経験で、もともと嫌いだった「コンサル」が更に嫌いになった ) 。ワタシが担当した「まじめなベンチャー」は、大手電機会社からスピンアウトして廉価な試験装置を開発していた技術系ベンチャーL社。L社は未だ売上がなく資金繰りがかなり苦しい会社だった。延命策としてL社社員とワタシは無い知恵を絞って事業計画書を作成し、K市で公募していた「ベンチャー運転資金支援事業」に申し込んだ。  L社は資金が尽きかけていて、いま入居しているオフィス賃料もあと数か月しか払えない状況。「K市インキュベーションセンターへの入居料支援」が一刻も早く欲しいのだが、予定されていた可否判断期日をかなり過ぎてもK市からは何の連絡も入ってこない。焦ったL社社長がうちのJ社長に窮状を訴えると、J氏は「K市議会の議員に知り合いがいるから、そこから話を上げてもらうよ」と自信満々に請け合った。結果は「 速攻・不採用 」でK市の支援は受けられず、L社は半年後につぶれた。  「K市議会の某議員」とやらのコネは逆効果。しかも 口利き数日でその破壊的効果が表れる という、もう笑うしかない結末になった。 どれだけ市役所現場から嫌われているんだよ某議員!  自信満々だったJ氏の面目も丸つぶれだが、その某議員が所属していた政党も数か月して与党の座から滑り落ちてしまい、当人も次の選挙で落選したようだ。 某議員は、関係した人間が全員不幸になるというとんでもない逆神だった 。  所属はたしか、、、民主党と言ったっけ。

数字は嘘をつかない、が

[まあ座れや]  自分を騙したい  ある小さな会社でISO9000の管理を請け負った事があるが、その仕事は気持ちが良いほどに「無意味」だった (もうISO9000は廃止した方が世界平和のためだと思うのだがね) 。だが「無意味」もここまで突き抜けるとゲームにできる。特に「数値化し、分析し、対策を練る」という部分は意外にも理系にピッタリ。うまくトップを丸め込んで、暫くは「合理的なルール設定で、数字で遊ぶ」ゲームを楽しんだ。  ある日、社長が管理数値に「社員の能力評価」を入れたいと言い出した。ワタシなりに考えた評価シートを作ってみたが、社長はそのシートへの評価数値記入まで求めてきた。「そこは人事の仕事でしょ?」「こういう数値評価方法は初めてなので、xxさん (ワタシ) の経験を使いたい。協力して」。止むを得ず期末に評価を行い社長に報告したが、その数値にいろいろ難癖をつけてきた。この評価は外せ、この評価項目を追加しろ。まぁ初回だし、それは分かる。だが数回応答を繰り返すうちに、「社長が持っているイメージ」に数値の方を合せ込んでいる事に気づいた。 早い話が 「俺のお気に入り社員の数値を高くしろ」だ 。それならそう言えば簡単に済むのに。でも、合理的な評価というタテマエだけは外したくないらしい。結局「お気に入り社員」の高評価数値を捏造して終わったが、その数値を使ってボーナスの額を決めたから冗談じゃない。しかもその数値を社員には見せず、会議で「客観的合理的な評価を行った」と得意げに宣言。 何のことはない、 ISOの仕組みを使って「自分で自分を騙したい」だけ だった。  「 数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う 」という格言があるが、他人を騙しているうちはまだイイ。本当の嘘つきは、数字で「自分を騙したい」のだ。自分を騙した挙句、その嘘を奇麗に忘れて責任を他人に押し付ける。彼は「 社長にしてはいけない社長 」だった。だが悲しいかな、数字で遊んだワタシも同罪だ。

なにやってんの俺?

[まあ座れや]  プルタブを開ける音に  忙しいには大きく分けて「仕事が忙しい」「家庭が忙しい」の二種類があるが、いずれも「何でこんなに忙しいんだよー、ガーっ!!」と吠えていた時が人生で一番充実していた時期だったのだなと、今は隠居の身で何もやることが無いワタシは思うのです。現役の皆さん、今のうちに吠えられるだけ吠えてくださいね。 (重要: もし貴方が死ぬほど忙しく、でも「ガーっ!」と思えないのであれば、 それは「 鬱 」です 。 誰でもいい、 助けを求めなさい 。)  休題。ワタシにとって2004~2005年が「何が何だかわからんが仕事が忙しい!ガーっ!!」だった。あれが仕事人生のピークだったと思う。台湾へ夕方に出張し翌日顧客と打ち合わせ、その晩に現地代理人と飲んで、その深夜0時ジャストに台北発、サンフランシスコに同日21時位に着。空港からレンタカー移動でサンノゼの定宿ホテルにチェックインしたのは深夜1時だ。翌日 (ああ、もう当日だ) はサンノゼで打ち合わせしたのち、夕方カナダへ移動の予定だった。突然無性にビールが飲みたくなり、ホテル近くのセーフウエイに買いに行ったが、「深夜2時から酒は売れないんだ」とレジでビールパックを取り上げられた。すごすごとホテルに引き上げ、やむを得ずホテルの冷蔵庫からバカ高いバドワイザーを取り出し、ベッドに腰を下ろして プルタブを開けた瞬間、思わず笑いが込み上げてきた。「なにやってんの俺?」 。  そのような「ガーっ」の渦中では、何で忙しいのか?この忙しさの先に何があるのか?という事すら考えなくなる。鬱の状態に似ているが、こちらは躁状態。何かの切っ掛けさえあれば我に返ることができる。ワタシの場合その切っ掛けはプルタブを開ける「プシュッ」だった。その後、仕事の流れのコントロールを意識するようになった ( 上手く行ったかどうかは別の話だ) 。  あのプルタブを引かなかったら、 無自覚な多幸感のうちに過労死してたのではないだろうか 。老いた今はもう、あの音を懐かしく思い出すことしかできない。

空に虹を見る

[まあ座れや]  上を向いて歩こう  年に数回は虹を見る。だが不思議な事に、虹を最初に見つけるのはワタシで、一緒にいる人達はなかなか虹に気づかないのだった。一度グリーンの流星を見つけた事もあったが、こちらは一瞬で消えたので「ホントかぁ?」と疑われる始末。最初は「虹を検知する超能力か?」と思いかけたが、どうやら空を見ている人が少ない様だと気づいた。ワタシはいわゆる「陰キャ」で、子供時代から地面ばかり見て歩く暗い少年だったし、それは大人になってからも変わらなかった。なのに老境の今、ナゼ空を見るのだろう。  病院で父が亡くなった早朝、幸いにも最期の看取りが出来た。葬儀社への手配と病院からの遺体の送り出しが終わり、にわか雨の中を自動車で実家に戻ろうとした午後の事だった。雲間の太陽に照らされて、今まで見た事も無いほど完全な半円の虹が現れた。自動車はその虹に向かって走り、その下を潜った途端に消えた。 「虹を潜る」なんて可能なのか? 今では「あれは勘違いだったのでは」と思うが、その時は「ああ、親父がお別れで架けてくれたんだ」と何の疑問も持たなかった。その日以来、母がらみで何か大きなイベントがあると、必ず虹が架かった。最初は不思議だったが、そのうち「親父が見守っているんだな」と思うようになった。  ワタシはオカルトに興味がある訳ではない。これでも腐ってもエンジニア、科学的合理主義の教育を受けて来たので超常現象を無批判に受け入れる気は無い。父が亡くなった日に偶然見た虹のお陰で空を見上げるクセがついた、だから虹を見る確率が上がったと考えるのが妥当だろう。だが同時に、「 まぁ、科学で分かってる範囲なんて僅かだしね 」とも思っているから科学原理主義者でも無いつもり (つまり「典型的日本人」だ) 。 だから「偶然」に何らかの意味を持たせることが無駄だとは思わない 。  最期に「上を向いて歩きなさい」と父は愚息に教えて去ったのだろう。  オカルトは信じない。父を信じる。

思い込み

[まあ座れや]  阿蘇でスタッドレス  ワタシは趣味としての旅行を全くしない。会社に入るまでは国内外ともに異郷はほとんど何処にも訪れたことが無かったので、世界各地はもとより国内の風習にもまだエキゾチックな思いがあった。インターネットが普及する前は情報を入手する手段が活字やテレビに限られていて、各地の情報が希少だったからだろう。だがネット情報が洪水の様に流れ込むようになってからは、そのような「無知ゆえのエキゾチシズム」は減っていった。奇麗な景色、おいしい料理、意外な習慣、秘密の路地裏。タッチひとつで何でもわかる。 あぁ飽きた、アタリマエじゃん、つまらんなぁ 。  現役最終期の15年間は仕事で日本国内を移動することが多くなった。訪問先がイナカにある事も多く、空港や駅でレンタカーを借りて移動する事がほとんど。ある冬の事、大分市から熊本市まで九州を自動車で横断するためレンタカーを法人向サイトで予約した。タバコ吸うヤツがいるから喫煙車、チャイルドシートはいらないよ、スタッドレスもいらんなぁ。暫くしてそのレンタカー屋さんからオフィスに電話が入った。「スタッドレスオプションをお忘れではないですか?」。へっ? 「途中で阿蘇を通過するので雪が降る可能性がありますよ。スタッドレスをお勧めします」 。それまで九州の地は人生のレンジ外。馬鹿な話だが「九州で雪が降る」という事を全く想像していなかった。それは地元の常識であろうし、ネット上にもそのような情報はあった。だが 「想像できない事」の情報はあってもなくても「無い」のと同じで、現実に遭遇して初めて「えっ?」と意外に思う 。  海外出張では「やはり日本とは違うよな」という感覚が意識の底にあり、「違い」に対しては驚きはすれども意外感はなかった。だが国内の場合は同質性への思い込みの為だろう、小さな差が意外感につながる。それからは国内出張の方が俄然面白くなった。  思い込みをひっくり返す小さな意外感。それは結構身近にある。

出身地の祝福

[まあ座れや]  ローカルの力   以前「出身地の呪い」というコラム を書いたが、反対に「出身地の祝福」もまた存在する。  80年代前半のお話。地元大学近くの駅でローカル線に乗ったのだが、真冬で結構な雪が降っていた。乗車して2~3駅過ぎたころ、駅でない所で急に停車し運転手が何やらやっていたが、しばらくして「 前方に雪だまりがありますので・・・一度下がって突っ込みます! 」と宣言。けっこうバックしてから勇ましいディーゼル音と共にかなりの速度で突進、その雪だまりを越したのだろう何事も無かった様に平常速度に復帰した。それからは雪国でローカル線に乗ることは無かったのでこれが雪国鉄道のいつも通りの対応なのか分からないが、その時は「やるなぁ国鉄」と感心した。  90年代前半の事。東北出身の同僚が地元から持ってきたマイカー(宮城ナンバー)に乗っていた。ある日、関東では珍しく大雪が降ったのだが、どうしても行きたい場所があり彼のクルマで首都高へ。案の定、雪で閉鎖されていたが、運転していた同僚が閉鎖対応していた警官に 「ナンバーを見てくれよ」と言ったらアッサリ「OK」 が出て通してくれた。もちろんスタッドレスタイヤは履いていたのだが、こういう時の雪国ナンバーへの信用は篤いなと思った。  先日埼玉から三峰神社へ向かっていたのだが、秩父山奥で発生した土砂崩れのため国道通行止めの警告表示が。残念ながら迂回路がなく、三峰神社へは中央道経由で大回りするしか方法がない。ダメ元で通行止め個所まで行ったら、警備員は前にいたクルマを通していた。「ラッキー!」と思いそのまま続いていこうとしたら制止された。その警備員と話したところ、「地元の人は裏道を知っているので通行を許可している。だから『熊谷ナンバー(秩父管轄)』以外は通行を許可できない」と追い返された。まぁ、そりゃそうだわな。   何事も経験の優位がもろに出るのが地元民。無国籍難民のワタシからすれば、うらやましい限りです。

社員食堂の鏡

[まあ座れや]  社員食堂ツアー  引退前のメンテナンス仕事では作業期間は短くても1日がかりだったので現場で昼食が必ず入り、訪問先の社員食堂で摂る事も多かった。社食は福利厚生で開設されているためだろう、各社の特徴が出ていて面白い。残念ながら各会社とも2020年のコロナ禍で在宅勤務へのシフトが進んだせいで社食の規模縮小/廃止が相次ぎ、コロナ禍が去っても元には戻らなかった。 (以下はコロナ前後の印象です) ・ 戸塚H社 :メニューが豊富。通常食堂の他にリンガーハットやラヴッツァの出店もあり、社食はここが一番だった。いまは見る影もないけど。 ・ 鎌倉M社 :ゲストハウス的なレストランが一般解放されていて定食が旨かった。「カツカレー大盛」が本当に激大盛でちょっと後悔した。 ・ 府中N社 :有名店とのコラボメニューが期間限定で出る事があり毎回ちょっと楽しみだったが、味は、まぁワタシに聞くな。 ・ 那須F社 :プリペイドカードのチャージ音がまるっきりマリオのワンナップ音で笑った。 ・ 川崎T社 :何の恨みもないが、生水がマズイのは何とかしてください。 ・ あきる野S社 :喫茶系がヤケ気味に充実している (一歩外に出ると何もない 田舎なの) 。 ・ 相模原S社 :テラス席は良いね。だけどアナタ、本社がおフランスなんだからメニューをもう少し頑張ろうよ。 ・ 日野G社 :弁当だけになっちゃったけど、逆に牛丼屋の自販機はちょっとそそった。 ・ 町田T社 :特筆すべきは今時10円100円券を必要分だけ千切って使うディープ昭和なシステム。品をうまく選べば 1000円冊子一冊で5日間喰える激安さは、 ニッポン社員食堂の鏡 です 。  引退した今は、家でカミさんの作ってくれたご飯を毎日食べてます。これも社員食堂、てか。 

ガラスの天井

[まあ座れや]  「トラン」シリーズ  2000年代、ワタシは技術営業としてシリコンバレーに出張することが多くなった。彼の地の半導体業界は、東アジア人とインド人が技術人材の中心である。そんな中で、珍しくベトナム人が立ち上げたAU社からお声が掛かった。最初の打ち合わせでコンタクトした人が「V.トラン」さんだった。初回の感触が良く、次のミーティング出てきた人達が「D.トラン」さん「W.トラン」さん。 やたら「トラン」だらけで、ワタシは密かに「トラン・シリーズ」と呼んでいた 。後日もう一回打ち合わせを行ったのだが、その時に疑問に思っていた事をVさんに質問した。「トラン一族の家族経営なのですか?」  大笑いのVさん、「いやいや、違います。『トラン』というのは ベトナムに多い姓 ですよ。ここのみんな他人です。皆、別の企業にいたんですが、スピンアウトしてこの会社を興したんです」。そしてすこし真顔になり、「 アメリカ人の興した会社では、アジア人はトップになれないのですよ。だから飛び出して、アジア人だけの会社を作ったんです 」。Vさん曰く、シリコンバレーには技術者としてはアジア人が多いが、経営者層にはあまり居ない。オープンな西海岸ですら人種の「ガラスの天井」がある。それを下から打ち破るのは困難だから、会社を興してのし上がった方が早い。幸い、成功したアジア人がエンジェル (ベンチャー投資家) になってアジア人のサポートをしてくれる雰囲気がこの地にはある、だからここで頑張るんだ。  結局この商談は成立せず、もう会う事はなかった。だが、なぜ日系の会社にわざわざコンタクトしてくれたのか? 同じアジア人 だから、か。これは2000年代の話だが、昨今(2025年)の相互排他的な世界情勢を見るにつけ、 その原因となる根っこの部分は何も変わっていないのでは、と思う。それを認める事から始めないと、全員の不幸は永遠に続くんじゃないか 。  真顔のトランさんの、暗い瞳を思い出す。

夫婦喧嘩は犬も食わない

[まあ座れや]  上海飯店  聘珍樓が今年(2025年)破産したとのニュースを聞いて、横浜中華街にある小さな料理屋さんをふと思い出した。  80年代後半には暇つぶしで良く出かけていた横浜中華街。ある雑誌で「『牛バラ飯』の旨い店がある」という記事を見て訪れた、町中華風の小汚い小さなお店のお話だ。雑誌では「 厨房のなかでやっている中国語での夫婦喧嘩を聴きながら食べる牛バラ飯はうまい 」てな話だったが、まぁどうせ話を盛っているんだろうとタカを括っていた。が、いやはや本当に中国語で夫婦喧嘩してるわ。数名しか入れないカウンター席の他のお客さんも苦笑いしていたから、 そのお店、料理よりも中国語の口喧嘩がメインイベントのお約束 だったようだ。  時は流れ、2005年に初めて上海に出張した時に「あの『口喧嘩』スタイルは中国語会話のスタンダードだったのね」と気づいた。この出張で簡単な中国語会話の必要性を感じ、遅ればせながら40歳過ぎで中国語の勉強を始めたが、声調 (四種類ある、単語のイントネーション) をちゃんと発声しないと意味が通じない事が分かった。例えば「買う」と「売る」が同じ発音「マイ」、これを声調だけで区別しているのだからもう大変。ワタシにはこの声調がどうしても体得できず、中国語習得は諦めた。  中国語発声の仕組みがそうなっているので、日本語に比べてかなり大声で勢いよく喋らないと中国語の会話にならない。 インバウンドで訪日の中国人同士の会話が日本人にはうるさく聞こえるのも止むを得ないのです 。あの町中華での夫婦喧嘩も「派手な口喧嘩だなぁ」とその時はビックリしていたが、中国語発声原理を差し引けば、「喧嘩」の部分はせいぜい3割くらいじゃなかったか。まぁどのみち夫婦喧嘩は犬も食わないけどね。  そういや、肝心の「牛バラ飯」はいまいちだった。懐かしくなって調べたら店は息子さんが引き継いでまだ営業中らしい。「 上海飯店 」、ああ、そんな名前だったな。