投稿

ラベル(仕事の繰言)が付いた投稿を表示しています

酸いか甘いか毒リンゴ3

[仕事の繰言]  あ~ぁ、つぶれちゃった  売り込みを図っていた産業用工具は基本的にロボットへの組み込みを前提に開発したので、当然ながら他社製のロボット周辺装置との連携も考えておかなければならない。そんな国内周辺装置メーカーS社 (仮名) を訪問したときの事だ。目的の技術検討を終わらせた後に業界動向の世間話をしていたところ、 同じ装置業界のメーカーZ社 (仮名) が倒産 してしまった、とS社の担当が話題を振ってきた。因みにZ社はS社の競合会社であった。 私:「は~、どこも競争が厳しいのですね」 S:「うちとしては競合が減るのは有難い事ですけど、Zさんとは技術でも競争してたのでねぇ。技術者としてはちょっと残念ですよ。あの技術はどうなるのかなぁ」 ワタシも技術者の末席にいたので気持ちは分かる。 ビジネスと技術は別の問題 だ。 私:「Zさんで何かトラブルがあったのですか」 S:「資金繰りですよ。うちらみたいな中小はどこも自転車操業ですよね。でも意外でした、 ZさんにA社 (あくまで仮名ですよ) のビジネスを取られたときは、うちが倒れるかと思った のですがね」 えっ! 私:「あのスマホの?」 S:「商談の大きさが桁違いだったので、いろいろ頑張ったんですけどね。結局Zさんに取られちゃった」 私:「性能差ですか?価格かな?」 S:「いや~、A社にはいろいろ聞いたのですがね、負けた理由を明確には教えてくれなかったのですよ。でも、雰囲気的には技術情報開示を渋ったのが原因だったのかなぁと私は勝手に思ってます」 それにしても、と彼は続ける。 S:「Zさん、可哀そうですよね。なんでも、A社生産ラインの急拡大で納入装置を大量に作る必要があって、設備投資をした後に需要がクラッシュしちゃったらしいんですわ。結局、 投資が回収できずにそれが資金ショートの切っ掛けだった とか」 な、なんだか急に不安になってきたぞ。 (続く)

酸いか甘いか毒リンゴ2

[仕事の繰言]  赤リンゴ青リンゴ  女が話しかけていた現地代理店E (仮名) の社員は実は「総経理」で、さすがに「E社飛ばし」の話は出なかった様だが「深圳のF工場 (仮名です) で使いたい」という話をしていた。E社総経理が女から渡されたA社 (仮名ですからね) のリンゴは青かった。 私:「ロゴの色が違いますね」 総: (総経理は流暢な日本語が話せた) 「A社の名刺には他に 黒・銀・金リンゴもあるって話を聞いたよ。そうそう、黄色もね 。そうやって、渡した名刺の流れを追跡できるようにしているという噂だけど、ホントかなぁ」 私:「深圳への連絡はお願いできますか?」 総:「まぁ今は技術的な検討だろうから、最初はそちらで勝手にやってくれ。A社なら英語で問題ないだろ? でも、あまり過剰な期待をしないで。この手の話は9割がた上手く行かないからさ」 そして少しためらってから、 総:「装置屋仲間からは、あまりいい噂を聞かないしね」  日本に帰り社長に報告すると、いつもは飄々としている彼も流石に興奮した。しかし「装置メーカーは使い潰される」という噂も知っていた。「あそこは最初は勢いが良いのだけど、工場生産の乱高下で下請けが振り回される、という悪い話も聞くんだ。ちょっと慎重にいこう」。 さすがはリーマンショックを生き抜いてきた中小企業の社長である。喰えないオヤジだ 。  2か月後に台湾への出張の予定だったので、代理店廻りの後に深圳に飛ぶスケジュールを「上海の男」宛にメールで打診したところ、彼から早々に返信がきて、日時と場所、コンタクト先のエンジニアの名前が確定した。 現地のE社総経理からは「ヤバくは無さそうだ ( 詐欺、誘拐?!ではないだろう ) 」との判断 がもらえたので、社長も同行する事になった。  モノゴトの流れとは面白いもので、この数週間後、国内某装置メーカーを全く別件で訪問するのだが、期せずしてその「使い潰し」の話を聞くことになる。 (続く)

酸いか甘いか毒リンゴ1

[仕事の繰言]  ついに奴らがやってきた!  2013年秋、上海の産業機械展示会で現地代理店E社 (仮名) のブースの一画を借りて一週間の展示を行った。 これといった注目も集めず、さりとてガン無視された訳でもない「いつもの展示会」感が満載 で、そのあたりは日本での展示会と変わらなかった。  最終の土曜日。「そろそろブースを閉めるか」という午後遅く、ある男女がブースにふらりとやってきて英語で話しかけてきた。二人とも外見は東アジア人。 男:「あなたは日本人の説明員か?」 私:「そうです」 (ワタシの名刺を差し出す) 男:「この工具は、あなたの会社で開発したものか?」 私:「そうです。全て一貫して日本で開発・製造しています。こちらのカタログを、、、」。 女が手を振り、 女:「いらない。内容はもう分かっている」 私:「???」 女:「うちの工場が欲しがりそうな工具なのだが、このE社を通しての販売か?」 私:「中国内での商流が無いのでそうなります」 すると、女の方がE社の社員の方にぶらりと移動して話しかけ、私と男を隠す形を作る。男がすこし顔を近づけ、小さな声で 男:「 E社は飛ばして、うちと直接取引しないか? 」 と、名刺を差し出す。左側に「赤リンゴ」ロゴのある名刺。夢にまで見た、スマホ最大手の一つA社 (仮名です) の名刺。この工具のターゲットの一つはスマホ工場だ。 正直に言おう。差し出された名刺を見ながら3秒以上は固まったと思う 。 私:「さ、さすがに、今すぐそれは出来ないと思う (悲しいかな、この時まだワタシは日本人的な「義理・人情」に縛られていた) 」 男が薄く笑い、 男:「深圳に会わせたいエンジニアがいる。興味があれば紹介する」 私:「お願いします!」 男:「都合の良い候補日を私にメールしてくれ。エンジニアへの連絡先を教えるから」 ぶらりと女が戻ってきて一言、 女:「連絡をまってます」 きたぁぁぁぁ~~~~~ッ! 。 (続く)

みんなで一緒にボコボコに

[仕事の繰言]  昔からそうさ  先日、ホンダが大赤字を出したというニュースを見た。記事では原因についていろいろ解析していたが、それを読んでいてふと思い出した。  ホンダの創設者である本田宗一郎氏が一線で活躍していた昭和期に、 「わいがや」 という開発方法が話題になった。これは大部屋にメンバーが集まって文字通り「ワイワイ、ガヤガヤ」と議論すること。当時のマスコミは「組織の垣根を超えたコミュニケーションの理想形」みたいな扱いで絶賛していた。ある講演で、この「わいがや」を立ち上げた方の話を聞いて笑ってしまった。実際は「本田宗一郎という天才と一対一で戦うのは無理だから、 数を頼みに宗一郎を取り囲んでボコボコにしないと意見なんか通らない。あれは結果的にそうなっただけ で、綺麗な話じゃないんだ」だそうだ。  1970-80年代に中東で資源開発をしていた、いまは引退した商社マンと話す機会があった。当時の現地での途方もなくスリリングな話を笑って話しておられたが (エピソード自体は笑える内容ではない、死地を彷徨う様な話だ) 、その中で「 当時、日本のマスコミから後ろから撃たれるような扱いを受けた 」という話が出てきた。その瞬間、 怒りでも悲しみでも無い、何と呼んでいいのかわからない表情 で「A新聞だけは許さない」とポツリと言って、すぐに元の笑顔に戻った。  一緒に仕事をしたある中小企業の社長さんは若いときに大企業を飛び出しベンチャーを成功させた方で、60歳で大学で学びなおしをするような知的好奇心にあふれる方だった。その彼が、ベンチャー立上げ資金をかき集めるためいろいろなチャネルにアプローチしていた時期に、マスコミにも接触したらしい。細かいことは聞けなかったが、「 連中は『結果』しか見ないんだよ。途中経過には全然興味がない 。あなたも (マスコミは) 迂闊に信じない方がいい」としみじみ忠告された。  マスコミは都合の良い「結果」しか見ない。仰る通りでした、先輩がた。

頑固と衰えと諦めと

[仕事の繰言]  「引退する」ということ  「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」という絵画をご存じだろうか。ワタシはあのカスティリオーネの「目」を前にして、発すべき言葉を持たない。諦めたような、でも「これでよかったのだ」という達観のような、あの目。 ・・・・・   「引退」というのは、人生における個人差の大きな判断の一つだと思う 。ある人は「引退」を、ある人は「退職」を選ぶ。 (悲しい事だが、そこに至る前に「壊れる」人もいる。)  「引退」のロールモデルがワタシの身近にいなかった。父は典型的サラリーマンで、会社を定年で退職した。ワタシの就職した会社でも定年退職する人達をたくさん見送って来たが、大過なく過ごした爺さん (婆さんは一名だけ。つくづく昭和だな) が花束をもらってフェードアウトしていった。だが定年は年齢という絶対的外部要因で決定されるので「定年退職=引退」ではないだろう。  身近で初めて「引退」したのは、70歳の腕の良い職人のOさんだった。頑固だが気のいい爺さんで、「Oさんに溶接できない配管は、配管の方が間違っている」というくらいの配管溶接のプロだった。本人も自らの腕前に恃むところが大きかっただろう。そのOさんが、あるとき信じられないような凡ミスをした。すぐにリカバーできる程度のものだったが、彼は目に見えて落胆していた。「そんなに落ち込まなくても」とワタシは思ったが、程なくしてOさんは「引退」を選んだ。 「プライドが傷ついた」という次元を超えて 「自分への信頼が壊れた」のだろうと思う。ああ、人はこうやって「引退」を決意するんだなと、ひどく悲しく思った 。  ワタシは62歳で引退した。理由は「 足掻くのを諦めたから 」としか言いようがないし、仮に説明できても他人に判ってはもらえないだろう。言葉は、言葉にすぎない。 ・・・・・ 「 バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像 」という絵画をご存じだろうか。 あの「目」を見ただろうか 。  あれが「引退」だ。

電話に出んわ

[仕事の繰言]  疑心暗鬼の上司を持つと  これまで何度か転職してきたが、いずれも技術系のBtoB企業だったせいか「極端に異常な人間」に仕事で出会ったことはほとんどない。大企業であればそれなりの人材が選別されて集まっており「極端に異常なヒト」は少ない。一方、中小企業となると「このひと天才!」も「ちょっとそれはどうよ」な人もいて個人差が非常に広いのだが、それでも 「モノ」 (万人が逆らえない自然法則) という絶対的な判定者がいる技術者には常識のタガが外れた人は少ない (変人はいるが) 。神様ありがとう。   問題はマネージャーだ。「モノ」ではなく「立場」が判定基準になるので、上手く組織側で制御しないとモンスターが誕生する 。私が例外的に出会った「これは異常だ」と思った人物は、某中小企業で上司だった事業部長のZ氏である。新規事業を立ち上げた功労者で、社長でさえ苦言を呈しにくかったのか、事業部内はほとんど彼の独裁状態だった。  とにかく疑心暗鬼が強い人物で、 「誰かが自分を陥れようとしている」 と本気で思っているらしく、周囲の人間を常に疑っていた。 ・ちょっとオフィスの端っこで2~3人が小声で世間話をしていると、「おい、そこ!何話してるんだ」といきなり怒鳴る。 ・管理職に昇格させた部下が少しでも才能を見せると、何かと難癖をつけて潰そうとし始める。 ・電車で携帯に着信したので次の駅で降りてからコールバックしたら、 「なぜすぐ出ない!」 「電車に乗っていまして、、、」 「 どこにいる、どの電車だ、どこに行く、何しに行くんだ、俺は出張先を聞いていないぞ! 」と怒涛の詰問。  一年ほど付き合って私は見切りをつけた。ある日、出張中に着信があったが、あえて出なかった。オフィスに戻ると案の定、   Z氏 :「 なぜすぐ出ない! 」 と来たので、すかさず   ワタシ:「 辞表書いてましたぁ(笑) 」  そのまま辞表を出してお別れしました。クワバラクワバラ。

かすむ巨大展示場

[仕事の繰言]  危うきに近寄「れ」ず  電動工具の市場開拓を請け負っていた2013年秋、中国へ販路拡大の取っ掛かりとして上海での展示を行った。場所は「上海新国際博覧中心」で一週間の産業機械展示会だったのだが、国内展示場とは大きさがまるで違う。当時は上海最大のハコで、東京ビッグサイトの2倍はある。  設営の日・月曜とも上海はとても良い天気。当時の上海はスモッグが酷いと聞いていたので肩透かしを食らったが、現地人曰く「通関が土日休みでトラックが走っていないから」。で、水曜あたりからスモッグが酷くなり、金曜にはホールの反対側が霞んで見えなくなってしまった。 ホール内までスモッグかよ、おい 。客層がまた何と言うか。ビジネス客に混ざって何故かご家族連れが沢山来ていて商談ブースでお弁当広げてご歓談、おいおい。パンフレット入れからごっそりカタログを持っていってしまうオッサン (日本の紙は質が良いので 古紙として高値で売れる そうだ。おいおいおい) 。「よそのブースはどうよ」と見学に行ったのだが、巨大ロボットアーム先端にゴンドラをつけて、ご家族連れ様を載せてぶん回すブースがあってびっくり。 安全も何もあったもんじゃねぇ 。  展示会出展で結果的に某有名スマホメーカーに繋がりができたので我が社としては満足だったのだが、同時に「 (中国は) とてもではないがウチでは付き合いきれん」と理解したので、中国拡販は現地人の代理店に全面的に任せ、東アジアは台湾だけに注力することにした。あれから10年以上経ち中国もかなり洗練された事だろう。だが、たかが10年程度では人も社会も根っこの部分に変化はあるまい。  あの時の「ゴンドラぶん回し」は欧州の超有名企業だったが、郷に入れば郷に従えとばかり自国での安全基準をガン無視して恥じないあたり、 ヨーロッパ人の手のひら返しは年季が入っている。中国と付き合うにはああでなくっちゃね 。日本人には (少なくともワタシには) 、まぁ無理だったわ。

ファナティック!

[仕事の繰言]  そこまでして下さいますか!  某社で新しい電動工具の市場開拓を請け負っていた2014年頃のお話。「生産ロボットに搭載できないか」と考え、国内ロボットメーカーへのアプローチから始めた。当時 (おそらく今も) の日本のロボットメーカーの競争力は非常に高く、しかも大中小様々なメーカーが独自の技術で競争するというとても健全な市場だ。 そのような健全な市場なので、ワタシがいた弱小企業の話も聞いてくれた 。  その中に、この工具に非常な興味を示してくれたQ社のV課長がいた。改善のヒントをたくさん教えてくれた上、次の展示会にはQ社ロボットをデモ用に無償で貸し出してくれると仰るので、会社にロボットを送ってもらい展示会に備えた。会期前日、会場でブース設置をしている時に、そのVさんがひょっこり現れた。「 (わざわざ見学に来てくれたのかな?でもなぁ) 展示会は明日からですよ」「ええ、前日準備が必要ですよね。だから来ました」 ( ちょっ、そこまでお願いしてません! ) ワタシはひたすら恐縮。Vさんは試運転まで完了させると、「じゃ、明日も来ますから」と引き上げた。  展示会中、Vさんはロボットに張り付き、訪問客の対応 ( だぁぁ、そ、そこまでお願いしてませんてば! ) 。当然Q社ロボットの売り込みだろうなぁ、と思っていたのだが、Vさんの説明は「この電動工具がどれだけ優れているか」の力説オンパレード。「このスムーズな締まり具合を見てください」「最先端の管理アプリが自慢です」「何よりこの軽さですよ。A社、B社(Q社のライバル!)のロボットでも当然使えます」 (コトバガデマセン...) 。  最終日、「お世話になったから、接待しないとなぁ」と社長がVさんをお誘いすると、ロボット解体・梱包まで終わらせたVさん、「無償でQ社の宣伝をさせていただいたのですから、お礼するのはこちらのほうですよ」と固辞し、颯爽と帰っていった。   健全な競争をしている会社は、社員も一味違う 。

男を出せ!

[仕事の繰言]  英語の勉強、その前に。  とあるテストセンターのTOEFL監督補助仕事で食いつないでいた2012年ころのお話。TOEFLは欧米大学への進学には必須な英語能力試験で、月十回程度の受験セッションに毎回けっこうな数の受験者がいた。 (「若者の留学離れ」をマスコミは嘆くが、この盛況を見て「ホントに取材してんの?」と思いましたよ。)  TOEFLは世界共通ルールで開催されるため、日本人からすると戸惑う事も多い。一番致命的に異なっているのが「本人確認書類」の有効条件だ。 「本人直筆サインのある、官公庁が発行した顔写真付きID」という条件を満たす日本のIDは「パスポート」以外に無い 。このためチェックイン時にトラブルが起きやすく、「本人直筆サインのある」を見落として自動車免許しか持ってこない受験者がたまにいた。  その中で印象的なのが「30代後半、バリバリエリートスーツ」風の男性だった。エリート道を順調に歩んできて「ここらで米国留学してMBAでも取ったる。おれスゲー」感のある人 (完全な邪推です) だったが、運転免許しか持っておらず受付で揉め始めた。対応したのが 試験会場責任者である女性 だったのだが、「直筆サインのあるIDが必須です。世界共通条件で受験要綱にも明記されております」と理路整然と拒否理由を説明した瞬間に、その受験者が「おまえでは話にならん!男を出せ!!」と切れた。  はぁ? 久々に聞いたぜ「男を出せ」 。彼女は動ずることなく毅然と「私がここの責任者です」。隣で控えていた監督補助の男性 (目が完全に怒っていた) がガバっと立ち上がり「あちらでお話しましょう」と控室を指さした。このダブルコンボを予想していなかったらしい愚か者は、いきなりしょぼんとなりぶつぶつ言いながら引き上げていった。その後ろ姿を見ながら、監督補助の男性は「 あいつは英語を勉強する前に、もっと別の事を勉強すべきだったね 」と小声で吐き捨てた。  エリート (気取りの) 諸君、そういうことだ。

「あっ!」ほど悲しい言葉は無い

[仕事の繰言]  二回測って、一度で切る  以前「資格を取るなら 40歳より前じゃないとキツイ 」という記事を書いた。ワタシは40代後半に (無謀にも) 「中小企業診断士」に挑戦したが、三回目の挑戦で断念。畑違いの勉強をするのであれば30歳代で向き不向きの感触を掴んでいないと時間の無駄になる、と理解した。 遅いわ 。55歳を過ぎて最後に就いたメンテナンス会社では、仕事上「必須資格」の取得が幾つか必要になった。幸いな事に大半は筆記試験だけで、しかも技術系の資格だったのでこちらはアッサリと合格できた (元は技術屋だったので、分野が違っても「理系としての勘」は利く。ま、そういう事です) 。  問題は実技試験の有る「二種電気工事士」。どの試験も同じだと思うが 「上手くやる」より「失敗しない」ことが重要 で、実技試験では特にそうだ。経験者というのは「失敗しない」事に長けていて、「 二回測って、一度で切る 」という古くからの格言を忠実に守っている。ベテランの作業を見ていて「トロいなぁ」と感じたら、「二回測る」に相当する部分を忠実に守っているからだと理解した方が良い (シロートほど「速くやろう」としてドツボにハマる) 。  電気工事士の実技試験は40分制限。35分くらいで作業が完了し「余裕だわ」と軽くチェックをしていたその時、ふと工具の脇を見て、「あっ!」この部品はナニ?正しく作業すれば与えられた部品は何も残らないハズ。慌てて配線図を確認して愕然「ま・ち・が・っ・て・る」。5分ではもうリカバー不能、ぁぁ詰んだわ。幸いにも実技試験は再受験可能なので翌年再挑戦したが、この時は慎重に慎重を重ねて作業した。ヨシ、今回は間違いは無いな。その瞬間、 右前にいた受験者が、小さく「あっ!」と呻いた。アンタもやっちまったなぁ兄ちゃん、ゲームオーバーだ 。来年頑張ってね。  ベテランの作業は派手さがなく地味に見える。「二回測る」という 本当のファインプレーは見えないものだ。たぶん、どんな仕事でもそうなんだろう 。

お偉いさんこそ詐欺にあう

[仕事の繰言]  だ、大丈夫ですか?  現役最後の15年間のほとんどが中小企業での仕事であったが、それなりのサイズの「中企業」では組織や仕事のやり方は大企業とさほど変わらなかった。大企業といえども、実際に自分が関わっている仕事の範囲では「中企業」と同じ。どちらも身近な組織が会社の安定を担保している。一方「小企業」は違う。社長が全てであって、それ以下は横一列。組織など名目だけで、社長以外は何かを判断したり責任を取ったりしない。長年生き残ってきた「小企業」の社長は善かれ悪しかれクセが強く、そのパワハラ気質が会社の安定を担保している (社員はたまったものではないが、潰れちゃ困るし、しょうがないね) 。  問題は「小企業」以前のスタートアップや業界団体だ。ワタシが関わった範囲でだが、それらのトップに大企業の上位の役職 (事業部長以上だね) だった人が座っている事例が多かった (意外かも知れないが、ベンチャーは必ずしも若い人だけのモノではない。シリコンバレーでも、大金を手にして引退した老人が暇すぎて「再起動」した事例を幾つか見てきた) 。そこでワタシは気が付いた。「 『以前、大企業の上位の役職だった人』の実務能力、それも常識の部分にはポッカリと大穴が開いている 」。  彼らは自分の「人脈」にとても自信を持っている。「あの会社のZさんに話を通せば問題ないさ」「Q大の教授にお願いしたから大丈夫」。だがその 「問題ない」「大丈夫」を担保していたのが「部下のサポート」だった事にまるで気づいていない 。明らかに投資詐欺と思われるメールに一人舞い上がっているオッサンを羽交い絞めした事もあった。投資家相手にいい顔をしたいばかりに「Exclusiveな特許契約書」を作って悦に入っていたり (さすがに呆れて見捨てた) 。もう、カモがネギ背負っているような連中ばかり。大企業のお偉いさんは、一人だとアッサリ詐欺にあう。  日本企業による海外企業のM&Aが上手くいかないのも無理はないね。

シャンパンは抜いたかい?

[仕事の繰言]  ベンチャーな人々  バブル期のJTCには「なぁ君ぃ!男たるもの、会社に入った以上は社長を目指すべきだろう」というアツい上司が飲み屋に必ずいたものだ。夏場に飲み屋でそんな話を聞かされると暑苦しくてたまらなくて冷たい生ビールが旨かったが、 えっ自腹っすか 。結局1991年にバブル崩壊でドボン。あの暑苦しい昭和な上司たちが絶滅して社会の流れが変わり、2000年直前には「ITスタートアップで、いつかは世界制覇!」という平成ビジネス・パーソンがどんどん起業。これはイケるか?と思う間もなく2001年に見事にITバブル崩壊でドボン。あのアツいドットコムな社長さんたちはいまどこへ。  ワタシがベンチャーに関わりを持ったのは2000年代前半で、シリコンバレーの半導体ベンチャー企業との取引で結構な数の技術ベンチャー (のエンジニア) と会話してきた。一番深くかかわったT社はそれなりの「基礎体力」のあるベンチャーなので会社そのものはなかなか堅実。だけど 企業文化は明らかにJTCとは大きく異なっていて、 一言で言えば「学園祭ノリ」 。少なくとも現場エンジニアはそうだった。ちょっと大きめな試作が上手くいくと「よし、シャンパンを抜こう!」だったり、製品が予想以上に市場で好評だったので「近くにあるインテル・ミュージアムに忍び込んでシラッっと展示品に紛れ込ませようぜ」と真剣にゲリラ作戦 (幸いにもやらなかったが) を検討したり、担当から音沙汰がないので同僚に聞いたら「ああ、ヤツは休暇でいまカリブ海」「えっ、この案件どうすりゃいいんですか」「心配するな、 あと1週間もすれば帰ってくるよ。生きてりゃな (ウインク) 」だったり。  結局T社は資金繰りが苦しくなり2000年代中頃解散したが、ワタシの関わった エンジニア達は大半がまたどこかのベンチャーに流れていった 。その中の一人はNvidiaに行き、まだ生きていれば今頃はストックオプションで億万長者だろう。ねぇ、シャンパンは抜いたかい?

塞翁が馬7(ついに完結っ[(m(__)m])

[仕事の繰言]  塞翁が馬   3年前には想像もしていなかった 、ワタシがまさかパワハラで鬱になりかけるとは。そして闇雲に足掻いた挙句、その鬱の原因となった人物の首根っこを押さえる事になるとは。その後Q部長はかの専務の覚えめでたく昇進し、1年後に無事定年退職して専務の口利きで子会社に栄転したが、まさかたった半年で辞めるとは。でもそりゃそうさ、あちらにはワタシがいないもんね。自分の昇進のために人を奴隷扱いし、思うままに便利に使い潰す パワハラ上司は勘違いで自滅した 。  F事業部での仕事は3年続いた。結果的に華々しい成功は出来なかったが、事業展開が社内で脚光を浴び、 いよいよ各部署の(本当の)花形が参入してきた。そうなると一匹オオカミは煙たがられる。 一緒に動いていた仲間と共にワタシもやんわりと排除され 、元のT統括部に戻された。 (でも、それで良かったのだろう。最終的に会社は別会社と合弁し社名も変わったが、ビジネスのやり方は「逆F事業部方式」にシフトして、今も生き残っている様だ)。  軟弱で主体性の無いワタシが、信じられない幾多の幸運を得て「自由」の匂いを嗅いだ。一度「ヒリつく自由」を体験したら忘れられるものではない。確かに新ビジネスは上手く行ったとは言い難かったし、自分の名前が社外で売れたという訳でもない。だがもう「自由」の無い組織で働くことが出来なくなってしまったワタシは、その3年後、リストラを機に退職する。次の仕事のアテも無いのに「自由」を求めて飛び出し15年間彷徨った。 「大企業を飛び出して成功だったか」と問われれば「成功ではなかった」と答える だろう。収入は激減し、生活は不安定で家族は心細い思いをしただろう。決して 「成功」ではない、だが「必要」な経験だった 。自由となった凡人は「辛く、苦しい」、だけど 「それでも死にはしないさ」と納得するために必要な経験だったと思う 。そしてその切っ掛けとなったのが、この長いお話の 発端のエピソード 。  うん、自分の選択が「成功だったのか失敗だったのか」悩むだけ無駄。人生の結論は死ぬまで暫定さ。さぁ、今日はなにしようか。 (完)

塞翁が馬6(しつこく連載中っ[((*^^)v])

[仕事の繰言]  見えない署名   「周りの部員にとっては驚天動地だった」 とは、後で人から聞いた話だ。 皆 「xx(ワタシ)さんはQ部長の奴隷」の認識でいたらしく、Q部長が奴隷に「相談」するって何? だったと。Q部長が受けたプレゼン準備指示は、彼の出世を握っている専務が出したらしい。うちの会社と某社とは長い付き合いで、ワタシが技術セミナーの講師を引き受けた事もある。その件を覚えていた専務が「xxに作らせたら?」とアドバイスしたらしい。Q部長だってワタシに「相談」なんてしたくないだろうが、背に腹は替えられない状況だったと推測する。  その資料作成に途方もない時間を費やしたが、作っていて「ナルホド、これは重要なプレゼンだ」と思えるモノだった。しかもF事業部で徹底検討した内容と本質的に同じ事を訴求すればよい事が分かった。そのプレゼンを他社にするのだから、F事業部の仕事をT統括部がサポートする事にQ部長自身がコミットするのも同然!一石二鳥とはこのこと、 何たる幸運 。後日プレゼンをQ部長が行い、ワタシは一切表に出なかった。Q部長が上機嫌で帰ってきたので、プレゼンはうまくいったのだろう。  翌日、その某社営業のKさんが突然オフィスにワタシを訪ねて来た。彼はQ部長のプレゼンを某社社長と一緒に聞いていたらしい。内線で呼び出され、ワタシが商談室に入っていくと、Kさん立ち上がりざまに 「xxさん、あのプレゼン、アナタが作ったでしょ」 とニヤリ。びっくりした。聞けば、某社内でプレゼンに参加した人々は「xxさんの匂いがする」と言い合っていたとの事。その瞬間 「ああ、分かる人にはわかるんだ」と、奇妙な充足感がわいてきた。 これでいい。これでいいんだな 。  このプレゼン成功に気をよくしたQ部長は、F事業部の仕事に協力的になった。前のめりと言ってもいい。何かあると「俺の知恵袋はどこ行った」と頼るようになり、ついにはワタシがいないと重要な資料が作れなくなった。 ( つづく )

塞翁が馬5(ねばって連載中っ[((≧▽≦)])

[仕事の繰言]  主導権を握る   依然として Q部長からの (嫌がらせ的な) 書類仕事は続いていた。ワタシの場合、新規事業の実行には古巣のT統括部の協力が必要で、その為にはQ部長を無視するわけにはいかない。簡単に言えば、どうやってご機嫌を取るか。そこが問題だ。  Q部長から回ってくる書類仕事は重要度の低い 典型的なブルシットジョブ で、主に経営者層に回覧してそのまま消えていくような書類だ、誰だってやりたくはない。どうしても新規事業立ち上げが優先するので、Q部長にはそれが面白くない事は解っていた。そこでQ部長の仕事の優先順位を(見かけは)上げる事にした。ただし言われてから処理していたのでは時間がいくらあっても足りないので、ここは攻めで行く。「この前の書類修正が完了しました。この内容だと次がありそうですね、用意しておきましょうか」「依頼された内容に付属資料を付けときました」「プランBは要りませんかね」「明日フライトなので飛行機の中で処理する時間がありそうです、追加で何かありませんか」。最初は「余計なお世話だ」的なQ部長の態度だったが、数回繰り返したら味を占めたらしい。あれくれ、これを作れ、ネタをよこせ。Q部長の上司から指示が降ってくる前に、彼自身が資料を要求し始めた。 おかげで無駄な資料作成量が倍になってしまったが、スケジュールの主導権を半分こちらが握ることになるので気分は楽だ 。 ご機嫌取りも「やらされる」のと「やる」のでは雲泥の差だ 。  相変わらずQ部長の書類仕事は続いたが、半年もするとだんだんと意味のある書類が回ってくるようになった。まったくの類推だが、Q部長自身が上司に対して提案的な持ちかけをする様になったのではないだろうか。ある日の事、某社社長に対してQ部長がプレゼンを行う事になったらしい。事務所に帰ってくるなり、 「おい、知恵袋。相談がある」 。そう言ってワタシを見た。  ワタシは内心で苦笑いしたが、周りはビックリしたらしい。 一体、何が起こったんだ、 と 。 ( つづく )

塞翁が馬4(まだまだ連載中っ[((^.^)/~~~])

[仕事の繰言]  ヒリつく自由   しかし、シリコンバレーでのプレゼン はそんなに重要なモノでは無かった。たぶんV氏の発案で、全員をこれからの主戦場の地に集めて一匹オオカミのチームビルドを目論んだのだろう。ワタシが作ったプレゼンへの反応も全員が「ほ~ん」程度で終わった。各部門せいぜい一名しかいないから、チーム内に自分の分野に詳しい他人はいない。各人自他ともに「自分の専門分野以外はワカラン」と理解しているので、質問もあっけらかんとしたストレートなもの。変なこじれ方も重箱の隅を突くような事も無い。その代わり、新規事業においては自分の専門分野に関して自分が全責任を負わねばならない事も理解した。いまならオンラインで日本と会話出来るだろうが、それでも時差の関係はどうにもならない。 いちいち日本の各部門にお伺いを立てていてはスピードが間に合わない 。なるほど、シリコンバレーでチームビルドを目論んだV氏は慧眼の持ち主である。  キックオフ後にいよいよ新規事業のマーケティングが国内外で始まったのだが、なにせチーム全員が初めての経験。大小さまざまな間違い、思い違い、想定外の事態が発生する。そのたびに互いに相談しなければいけないのだが、 「自分の責任範囲」が明確で、かつその範囲では全責任を自分が負う必要がある事を理解した「一匹オオカミ」達との会話は、ワイルドだが愉快だった 。互いに遠慮は無いが互いを尊重していた。成功したら素直に喜び、失敗したら素直に認めた。 忙しかった。速かった。ヒリヒリした。自由だった。  キックオフからおよそ四半期が経ち、ようやく新規事業の方向性が固まって来たが、この間も兼務であったので、古巣のQ部長からの仕事は続いていた。ワタシが新規事業の仕事で飛び回っているのが気に食わないのは明らかで、「部下が居ないのを良いことに遊びまわっている」と漏らしていた様だ。そのうわさを聞いて、「部下を剥ぎ取ったのはアンタじゃん」そう思えた時、ようやくQ部長の呪縛からも自由になりつつあることを感じた。 ( つづく )

塞翁が馬3(まだ連載中っ[((^_-)-☆])

[仕事の繰言]  一匹オオカミの群れ   ワタシの部門だけではなく どこの部門も考えは同じ。トップの指示は「その部門で一番出来るヤツを出せ」だった様だが、 そんな指示には面従腹背が大企業のオキテ だ。「こいつが最高です」といったそれらしい推薦状を部門の変わり者に付けて、実態は「バカを厄介払いできてラッキーだねっ!」。そもそもその「新規事業」の立ち上げを主導した事業部長のV氏自身がとんでもない変わり者で、彼が以前所属していた事業部の異端児だったらしい。結果として、 その「新規事業」部門には「書面上は高評価」の奇人変人が大集合してしまった 。  「変わり者」というのは良かれ悪しかれ「自由人」の気質を持っている。 良く言えば「独立独歩」、悪く言えば「傍若無人」である 。しかもV事業部長が「最高に変わり者」だから、 もう「一匹オオカミの群れ」の放牧状態 。数回の会合を経て、鬱状態で軟弱なワタシにはとても耐えられない事を悟った。「どうやって断ろうか」と考えたが、元の職場のQ部長が許すわけがない。完全に進退窮まったある日の会合で、V事業部長が「来週全員でシリコンバレーに行ってキックオフするぞ。各部門で何ができるかのプレゼンを作っておけ。パスポートが切れてる奴はクビだ!以上」と宣言した。慌てたワタシが「プレゼン内容をT統括部 (ワタシの居た事業部) で検証しないと実行の責任が持てません。来週は無理です」、V氏「T統括部ぅ?あんな連中は何も出来ない。オマエの考えた内容で行け。T統括部に相談なんか許さん」。  それから一週間は地獄だった。「米国出張の前に作っとけ」というQ部長の資料を作り・作り直し・作り・作り直しの無限ループ (今思えばあれは嫌がらせだったな ) 。肝心の新規事業プレゼンを作る暇がない。結局、シリコンバレーに向かう飛行機の中で徹夜ででっち上げるのが精いっぱい。あれよあれよという間にアメリカへ拉致され、めでたくF事業部が発足した。 ( つづく)

塞翁が馬2(連載中っ[(^^♪])

[仕事の繰言]  人身御供   閑職に追いやられた とはいえワタシはまだQ部長の部下だった。主要な業務から外されたワタシは、Q部長の雑用係にはうってつけの存在だったらしい。訳の分からない資料作成やら意味不明な会合への出席やらを突然押し付けられ、しかも作った資料は必ず没を喰らい作り直しで深夜残業・休日出勤は当たり前。 今にして思えば、それを我慢する理由は無いハズなのだが、鬱になりかけの人間には真っ当な判断が出来なくなるというのは本当なのだ 。当時のワタシはパキシルやリタリンで何とか動いていたようなものだ。  そんな状態が延々と続いたある日。ある「変な」業務がトップからQ部長に降ってきた。それは会社の主流 (=出世街道) の事業とはまるでかけ離れた、新規事業の立ち上げ。2000年代前半の日本半導体メーカーは既に「死に体」で、各社生き残りをかけて合従連衡を繰り返していた。だがうちの会社はそのような流れから外れて、自力で生き残りをかけた勝負に出ようとしていたのだから、ワタシはその時の社長を尊敬している(結局上手くはいかなかったが、それは結果論)。社長からの指示は「新規事業を立ち上げる。各部門から一名、管理職を出せ」だったらしい。だが悲しいかな大企業。社長の危機感が中間管理職以下には腹落ちしていない。普通は逆だと思うのだが、ちょっと変な会社だった。会社の主流事業が上手くいっていないのだが、多くの社員はそれ (主流事業) が「社内では主流」であったが故に、そこから心理的に離れられない。 「そんな主流から外れた、どうなるか分からない博打みたいな仕事が出来るかよ」。まぁ無理はない。  もうお分かりですね。Q部長にとって、ワタシはそんな人身御供にピッタリな存在だった。「これはxx(ワタシの事)に向いてる仕事だ。本当は僕がやりたいぐらいだが、オマエに譲ってやる。頑張ってこい。あ、いまの仕事と兼務だからね」。その裏で「こんなの、xxに押し付けておけばいいさ」と言っていた事を後から知った。 ( つづく )

塞翁が馬1(ブログ一周年記念:連載開始っ[(^^)/])

[仕事の繰言]  部下を剥ぎ取られる  大きな栄光も挫折もない平凡で退屈なワタシの人生だが、それでも 「後から思えば、あれがターニングポイントだったな」という時期はある 。  2002年に9名の部下を持つ課長になった。技術屋出身でマネジメントの能力など無いワタシが課長になったのは、古い日本企業の「年功序列」と言う悪しき習慣ってやつだ。それでも立場は立場、皆に呆れられながらもオタオタヨロヨロ何とか半年ほどやってきたが、そこで人事異動があり上司としてQ部長がやってきた。このQ部長、パワハラ気質が酷く前職場でも何かと話題になった御仁である。最初は比較的安穏とした状態だったが、半年も経つとエンジンが掛かってしまったらしい。ワタシを通り越して部下Aを直接攻撃しだした。ゴタゴタの末、それから半年でその部下Aが退職する事態となった。当然、直属管理職であるワタシの責任である。部下を守れなかったという忸怩たる思いで半分うつ病になりかけながら、そのままズルズルと時が過ぎた。  恐ろしい事に、しばらくして部下Bへの攻撃が始まった。これには軟弱なワタシもさすがに強く反発し、Q部長と正面衝突の状態に突入した( この時の経験から、「〇〇の為と思って言ってるんだ」というセリフを吐く人間を、ワタシは今も信用しない )。だが結果的に部下Bの退職も防ぐ事は出来ず。 (明示はされなかったが) 一連の部下退職の責任をとる形で、ワタシは部下全員をはく奪され、「部下なし一人課長」用として作られた閑職に追いやられた。 (不祥事では無いので降格されないあたりが昭和な会社だった。これは今回の話とは関係ないが、 「降格されない」のもまた問題だと思うな 。)  原因を作ったのはQ部長としても、部下を二人も守れなかったのは無能なワタシの責任だ。「そもそも管理職に向いていなかった」は言い訳にもならない。 では責任を感じて辞めるか?情けないかな、当時のワタシにはその勇気もなかった 。 ( つづく )

我儘なんかじゃ無い

[仕事の繰言]  不老不死  いや、分かってるんです、冗談だという事はよぉ~く分かってるんですよ先輩。でも「 君に求められているのは『不眠不休』ではない、『不老不死』だ 」って、、、。  昭和末期は日本全体が狂っていた。「昇りエレベーターを全力で駆け上がっている」ような、そんな感じだった。1985年 (昭和60年) に社会人になり、3か月位は見習い新入社員でアイドリングの平和な日々が続いていたが、その後は怒涛の残業休出生活。手元データを見ると月平均70~80時間程度の残業。ピークは1988年8月の120時間 (恐ろしい事にサービス残業は含まず) 。残業時間から見てもバブルの影響がわかる (バブルだからといって皆が浮ついて遊んでいた訳ではないのですよ、そこのお若い方) 。残業ピークのころだったと思う。ヘロヘロになりながら、深夜の自販機前でカップラーメンを食べつつ先輩に、「この忙しさは何処まで続くんすかねぇ。不眠不休ったって限度がありますよ」と愚痴ったワタシに対する反応が、冒頭の言葉だった。二人とも力なく笑って仕事に戻った。なぜそこまで理不尽に働かねばならなかったのか。  今なら分かる。どんな時代にも組織にも「奴隷」が必要なのだ。そして、進んで「奴隷」になる狂った人間は必ずいる。真剣に仕事をするのは当然の事。だが「真剣」と「狂気」は紙一重だ。 あなたが何かの主導権を握ったまま「狂う」とパワハラ人間に、主導権を失って「狂う」と奴隷になる 。 そして その二人は、同罪だ 。狂っていた。ワタシがそうだった、先輩もそうだった、社会も会社も月もスッポンも皆そうだった。狂った奴隷だった。  本当に狂うと狂っていると言う認識すら無くなる。「真剣に」仕事がしたいのであれば、奴隷になりたくないのであれば、強制的に仕事から離れる必要がある。休暇でもいい、転職でもいい、最悪は入院でも止むを得ない。 その大事な仕事から一度離れろ。それは決して我儘なんかじゃ無い 。